死について考える

長生きをするために、医療も技術も進歩しているわけではないということ。

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「死に際」に思うこと』という記事を読んで、思ったことをまとめてみました。

医療はどんどん進歩しているけれど、僕たちはもう一度「死」というものをよく確認しておくべきだと思いますね。

でないと、どんな技術も無駄になってしまう。

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「身内の死」に対する、準備不足が現しているもの。

この記事を書いている方、詳細は書かれていないのですが医療関係者のようで、当然のように人の死に際をよく見てきているようです。

そこで思ったことを書き記した記事なのですが、まずは冒頭にある「患者に対してDNARを取るか取らないか」という問答を家族に投げかけたときの反応が、まさに現代社会を生きる僕らの「死に対する準備のなさ」を現していて興味深かったです。

DNARとは「Do Not Attempt Resuscitation」の意味で、要は延命治療のことです。一部抜粋して紹介します。

「延命治療はどうしますか」と問いかけた時の反応は様々です。軽症の方の家族には「そんなに重症なの?」という方もいますし「今ここで私が決めなきゃだめなの?」という判断に困る方もいます。もちろん「延命はしなくていいです」とあっさりおっしゃる方も一定数います。軽症の方はむしろ説明の時間がかかって、家族に精神的な負担を強いるだけに終わることが多いですが、よっぽど時間がない時を除いてはしておいた方がいいと思っています。

私が話をしていて気になるのは「今ここで私が決めなきゃだめなの?」という方が多いことです。初療するとき私たち医療者は飲んでいる薬を必ずチェックするのですが飲んでない高齢者はまずいないということです。10種類以上飲んでいている人も多いです(8種類以上飲んでいる場合の薬の副作用出現率は100%と言われています)。そのような方(と家族)が最後を迎える時のことを具体的に想像していないことが不自然なはずなのですが、基本的に最後のことを考えることが感情的に嫌だという印象を受けます。個人的には最後の時を考えていた方がその人と周辺の人たちは人生の充実度が増すと思っていますし、嫌な思いをさせるだけの迷惑行為ではないと今の所は思っています。

「延命治療をする」という時点で、すでに助からない可能性が高いわけで、ほとんどの場合この延命治療は患者を苦しめるだけのものが多いんですよね。心臓マッサージとか、あれは医者も苦しいみたいですからね。精神的に。

しかし、もしもあなた自身に、自分の家族の延命治療をするかしないかの権限が迫られたとき、どんな決断をしますかね。「なぜ私が決めなくてはいけないのか?」という疑問を抱く人は、間違いなく死に対する準備ができていない人ですね。

もちろん、この話は善悪ではありませんよ。「正しい選択」なんてものはありません。しかし本人に回復の見込みがなく、意思の確認ができない状態になり、家族であるあなたにしか延命治療の選択権がないと迫られたとき、どうしますかね。それでもまだ「私が決めるべきなのか?」という迷路に迷い続けてしまうのでしょうか。

 

ちなみに、どんな状況か、またはどんな治療方法をするのかにもよりますが、僕は基本的に家族の延命治療を強制しないと決めています。まだ自分の妻や子供を持ってはいませんが、おそらくこの決断は変わらないでしょうね。

僕の父親もそろそろ70歳なのですが、死についての話はよくしています。父は「葬式もあげなくていい」という意向なので、僕もその意思を尊重するまでです。人の死を経験したことがある人であれば、話し合いをしている人もいるのではないのでしょうかね。

 

家族や身内の死というのはいつやってくるか分からないわけで、「いざとなったときに決断を迫られて迷う」という状況は、日頃から身内の死に対する準備のなさがそのまま現れているのと同時に、相手に対する思いやりが足りていないことの現れでもある、と僕は思います。

「身内は死んでも気にしない」という考えと、「身内の死については考えていない」というこの2つ。実は心の奥にある「死に対して(自分は)何も考えたくない」という思いでは、全く一緒のことなんですよね。

人は死に、自分もいつかは死ぬ。そしておそらく、その死に最初に出くわすのは自分の身内や家族でしょうから、もっと真剣にというよりも、真摯に身内の死と向き合っていく必要があると思いますね。それがそのまま、あなたと相手の人生の価値を決めることにもなるでしょうから。

長生きすることに意味を生み出せないなら、医療に価値はない。

そして次にこの文章。なんというか、もう「人間ってなんて愚かなんだろう…」と思わざるを得ませんね。

私が時間がある時に高齢者の方の話を聞いたりすると時折聞くのが「生きていて楽しくない」というものです。もちろんこの方は若い人たちの税金や未来の子供達の借金を増やしながら医療を受けているのに何を甘えたことを言っているのだろうかという気持ちを持つ一方で、この方に必要なのは医療ではないんじゃないかなと思ったりします。

私が一番衝撃的だったのは終末期の患者さんで食事もままならないのに薬は一生懸命飲んでいてそれを聞いてみた時に「薬は飲まなければいけないんでしょう?」と問い返された時です。私としては100回のまずい薬より、1回の美味しい食事の方が人生の終末期としては意味があると思うのですが、「飲まなくていいですよ」と言った瞬間にこの方の今までの努力と人生が無為になるのだろうなと思い答えを窮してしまったことがあります。

僕ら世代の平均寿命は100年になるだろうという予想もされていますが、さて、長生きをすることにどれほどの意味があるのでしょうか。

例えば、70歳で脳梗塞になり、一命は取り留めたものの植物人間状態で10年間の入院生活を送って80歳で死にましたと。で、70歳から80歳までの10年間を生き延びたわけですが、そんな人生って僕は全く意味がないんじゃないかと思うのです。それにその10年間は税金を使って生活せざるを得ないのですからね。次世代の負担を増やしているわけです。

 

どうしてこうも人は死に対して恐れを抱き、目の前に迫ると必死に逃れたがるのでしょう。

実例をあげながら例えるのは難しいんですが、僕は痛みながら死ぬのは嫌ですよ。だけどポックリ死ねるなら、たった今この瞬間でも構わないんですよねぇ…。いや、もちろん死にたくはないんですが、このビミョーな気持ち伝わるかなぁ(笑)。

 

今の社会は「長生きをする」というのが美徳であるかのように思われているわけですが、日本の平均寿命を伸ばしているのは実は入院生活を送っている高齢者たちが多いわけで、その人たちが幸せを感じられていないのなら、長生きすることに意味はないんじゃないかと思うのです。

よく「大事なのは健康寿命!」という言われ方もされますが、これにも僕は釈然としませんねぇ…。言葉だけで表すのは難しいんですが、大事なのは長生きすることでも、健康でいることでもなく、幸せを感じて生きていること、ではないのでしょうか。

で、そこに時間は関係ないと思うんですよね。僕らは常に今この瞬間を生きているわけですから、他の変わりゆくものに心を囚われ過ぎていなければ、幸せは常に感じられるわけです。

 

僕らは医療が進歩すると同時に、というよりも前に、まずは僕らの心が成長しなければ、きっとどんな技術も全く役割を果たさないでしょう。一見すると進歩しているように見える技術も、実は裏で多くの犠牲を払うだけの無駄な作業を繰り返しているだけ、なのかもしれないのですから。

死ぬことに対して悲観する必要はない

さて、死というテーマで取り上げてきたわけですが、僕は死ぬことに対してあまり悲観的ではありません。いや、勘違いしないで欲しいんですが、僕は死にたくないし、むしろ100歳まで生きたいですよ(笑)。できるだけ長くこの世界を楽しんでいたいですからね。

それに人の死は、それが身内であればあるほど辛くて悲しいものですからね。これは紛れもなく事実であって、それは悲しみ以外の何物でもありません。僕も経験がありますが、このときの気持ちはもう言葉じゃ表せませんね。

 

でもまぁ、遅かれ早かれ人は死ぬんですよ。

この「人は誰もが死ぬ」という、当たり前すぎて誰も話したがらないような現実を、本当の意味で受け止めることができたとき、自分の人生をもうちょっとだけ楽しもうかなって思えるんですよね。この気持ち、きっと人の死を経験したことがある人なら分かるんじゃないかな。

確かに人の死は悲しみ以外の何物でもないけれど、僕ら今を生きているわけです。この”今に在る”という実感が強くなればなるほど、人生に深みを持ちながら生きていくことができるんですよ。これまで直面してきた人の死は、僕にとってそういうものでした。

 

どんな医療や技術も、進歩することそれ自体にまったく意味はないんだなぁと、この『「死に際」に思うこと』を読んで改めて思わされた、というお話でした。

死について考えると、頭じゃ理解できなから思考が止まって心が穏やかになるよね。僕にとってはこれが幸せだったりします。

そんな感じ!そいでわっ!

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